スチューデンツ オブ パブリックスクール 2




―司、担任の先生から連絡があってね!水島君の学力は校区の中学校ではもったいないから、
この学校を受けてみたらどうですかと薦められたのよ!―

―・・・知ってるよ、でもそこ私立だよ。それに全寮制だし・・・いいって、勉強はどこでも出来るよ―

―お金の心配なら、母さん今以上に働くから。それに先生がね、この学校には独自の奨学金制度があるし、
司なら審査も成績も大丈夫だからって。ほら、ここ読んでみて!―

―どこ?・・奨学金制度・・・審査面接の上・・・・・・ほんとだ!ここで勉強出来るの!?―

―出来るのよ、司!・・・きっとこれは天国の父さんからのご褒美ね。
父さんが亡くなってから、ずっと司は勉強も母さんのことも、一生懸命頑張ってくれていたから―

―母さん・・・―




12歳 桜が吹雪く校庭で

真新しい制服の紺色も鮮やかに

高鳴る胸の鼓動と輝く瞳



「・・・金なんか無くても・・・溢れるほどの教材が無償で使えて・・・。勉強することが楽しくて仕方なかった・・・」

うわ言のように呟きながら、震える腕でどうにか体勢を取り直した水島の背後に、再びベルトを手にした先生が立った。

だが背後から飛んで来たのは、ベルトの痛打ではなく水島の呟きに頷きつつ諭す声だった。


「それが本来の勉強だろう。競うのが目的じゃない」


「競うことなんてなかった!俺はいつだって、トップだったんだ!」


―・・・先生・・苦しいんです・・・苦しくて・・息が詰まる・・・―


「水島、それが君の本音だ」


突き付けられた言葉に、水島の瞳が大きく潤んだ。

最後の心の澱(おり=一番底辺に溜まっているもの・よどみ)が、涙と共に頬を伝う。


「各校から一番の生徒が十人集まると、誰かが一番で誰かが十番になるんだよ。
成績順位なんていうのは、その程度のものさ」

「・・・だけど、どれだけ勉強しても・・・俺は・・・負ける・・・」

「目的を見失っているから、負ける意味をはき違えるんだ!」


パンッ!!


革を弾く音が、気力が萎え崩れようとする水島の姿勢を阻止する。


「目的・・・」

「この学校で学ぶ目的さ」

水島にかけられた言葉は、僕の心にも深く響いた。

病気から休学留年と続き、挫けそうになりながらも復学を果たせたのは、この学校で学ぶ目的があったからだ。


―僕が勉強する意味は? 僕が生きている意味は?―


その答えを、見つけるために。


人それぞれに違う、学ぶことの目的。



―母さん!最高だよ!勉強だけじゃないんだ!スポーツもクラブはないけど、
クラスのみんなと対抗戦だってするんだよ!バスケットコートなんて、2面もあるんだ!―

―そう!司の好きな、バスケットボールも出来るのね!母さん、司が楽しそうでいてくれるのが一番幸せよ―

―・・・もっと幸せにするよ、母さん。その為に、ここで勉強しているんだ―



「先生・・・俺は、ここで・・勉強がしたい・・・」

水島の剥き出しの心が、零れ出た。




伝統は 一世紀の昔より変ることなく

規律乱し者は 未だ体罰を受く

しかし 痛みに涙するだけでなく




「竹原君のご両親から、嘆願書が届いているよ」

嘆願書!? にわかには信じ難い事柄が、いったんは塞がれた謹慎の戸口に、穿孔となって突き刺さった。

「どうして・・・」

驚きを通り越して呆然と聞き返す水島に、初めて先生は微笑んだ。

「君がこの学校で、勉強を続けられるようにさ」




彷徨いし心をも救われれば 溢れる花々に 

希望の光 安らぎを得る   

匂い立つ芳香は 風に吹かれ漂い

髪にかすれば しばし足が止まる

パブリックスクール 緑の芝生 温室のバラ園

パブリックスクール 多感な少年たちの学び舎




「俺は、何度も篤を殴った・・・。呼び出して・・・なのにあいつは・・・」

眼鏡を掛けていない水島は、いつもの大人びた風情は微塵もなかった。

縋るように先生を見る眼は、そのまま十七歳の少年の表情だった。


「実力考査期間中も、竹原君を呼び出したんだってね」

「・・・実力考査の二日目です・・・金を・・・受け取りました」


試験期間中・・・図書館へ本を返却に行った帰り道、高等部の敷地内で流苛に出会った日のことだ。


―友達を捜してるんです。高等部の方に行ったって聞いて・・・―


この時、流苛はもう水島と竹原のことを知っていたのだろう。


「竹原君からお金を受け取ったのは、最初とその二回だけだね」

「はい・・・」

水島が竹原の携帯番号を聞くのは容易(たやす)かった。

ただ中等部は携帯を持ち歩けないので、寮に居る夜間や休日に連絡を取っていた。


「試験前後は特に頭痛が酷くて・・・精神的なイライラが治まらず・・・」

水島はイライラのはけ口を求めるように、高等部敷地内の目立たない場所に竹原を呼び出した。

僕と流苛がいたあの林の中のどこかに、水島と竹原もいたのだ。



―篤、持って来たか?―

―・・・はい―

―ふうん・・・ちゃんと五万円あるな。どうだ、眼鏡?似合ってるか―

―・・・前のは、ぼくわからないけど・・・水島さんは眼鏡が似合います!―

―そうか。・・・お前、この金が眼鏡代の不足分だって、本当に思ってるのか?―

―・・・水島さんがそう言うのなら、それで・・・。元々は、ぼくのせいだから・・・―

―・・・俺のこの眼鏡、十五万円に見えるか?―

―・・・水島さん、どうしてそんなこと言うの。ぼくは・・・ぼくの出来ることをしているだけです―

―責任感が強いんだな、篤は。・・・ぼくの出来ることか。じゃ、次は十万円持って来な―

―水島さん・・・―



「篤を見るとイライラが増すのに、呼び出してしまうんです・・・。
俺を怖がるくせに、真正面から俺を見る。そんな篤に、俺は・・・」



―どうした、持って来てくれるんだろ?―

―・・・はい―

―・・・・・・―

パンッ!! 返事をすると殴った。



「自分の痛みを転嫁(てんか=他人におしつけること)するからだ!」

ぐっ!と、先生の腕に力が入ったかと思うと、


パシ―――ンッッ!! 上段からベルトが振り降りた。


「――――っぅう・・・!!」

水島は僅かな呻き声を洩らしただけで、手はしっかりとテーブルにつけたままだった。


「・・・殴ると・・・篤は・・大泣きして・・・」


ビシッ!! 返す際から、尻を打つ。


「くっ!!・・・うぅっ・・・その泣き声で、自分のしたことに・・・気がつくんで・・す・・」



―うえぇ・・うわあぁぁんっ・・・!!―

―篤・・・お前が返事をするからだろ。ほら、こっち来い―

―・・・ううっ・・ひっく・・・た・・叩かないで・・・お願・・い・・・―

―いいか、叩かれたくなかったら、返事をするな。それが出来ないなら、俺の呼び出しなんか無視しろ―

―そんなこと・・・ぼく・・ぼく、どっちも出来ないぃ・・・わあああんっ・・・―

―・・・泣くなよ。そうだ、篤。いま試験中だろ、勉強見てやるよ。図書室に行こう―

水島は竹原を膝に抱きつつ、泣き止むまで殴った頬を撫で続けた。






「あの金髪の一年生が・・・俺を止めてくれた。・・・先生が教室に来なければ、俺はいまでも篤を・・・」

「どうして竹原君が何度金を要求されても叩かれても、君のところへ行ったのか、わかるかい?」

「それは・・・篤の責任感の強さと・・・俺が怖かったから・・・」


「君が、抱きしめてくれるからだそうだ」


「・・・先生・・・俺はどうしたら・・・ううぅ・・あぁ・・・」


水島の握り拳に滂沱の涙が落ち悔恨の悲鳴が上がる瞬間、先生の手にするベルトが再び炸裂した。


ビシィ―――ッッ!!


激しい痛打は通音と共に、水島の体を一撃で崩し落とした。


ダーンッッ・・!! 上半身がテーブルに落ちて、起き上がろうとするものの力尽きたように、水島はうつ伏せの状態で床に倒れ込んだ。


「思慮が足りない!少し考えたらわかるだろう。君だけが厳しい環境にいるわけじゃない」


「ふぐぅ・・・うぅ・・・」

声を殺して、水島が咽び泣く。


先生はベルトを丸めてテーブルに置くと、椅子を引いて座った。


「竹原君は、転校するよ」


「俺の・・・せい・・・・・・」


搾り出すように発した言葉は、ほとんど声にならない声だったにも関わらず、先生は聞き逃さなかった。

「いや、これは竹原君とご両親の問題だ。・・・だけど、君が知らないで済む話でもないね」

そう言って、先生はポケットから茶封筒を取り出した。

ぺらぺらの封筒は、中は空だったが間違いなく水島が手に持っていた茶封筒だった。

「君が此処に来た三日後に、竹原君のご両親から連絡が入ったんだよ」


電話で用件を済まそうとする竹原の父親に、先生は学校へ来ることを促した。



―私たちに足を運べと?そんなことは、そちらの責任ではないですか!
まず厳正な処分と学校側の謝罪、そして今後の対策についての返答を待っています―

―もちろん、責任の所在は我校にあります。しかしそれを解明するには、
ご両親であるあなた方にも、こちらに来て頂く必要があります―

―今さら何を解明すると言うのです。既に犯人はわかっているではないですか。医療現場は常に多忙なのです。
人の命を預かっていますからね。私も妻も、無駄な時間などありません―

―目の前のわが子を救えずして、人の命ですか。ご立派な発言ですね。
まがりなりにも医者を名乗るのであれば、無駄かどうかは来て頂ければわかります―

―・・・いいだろう。私に対する侮辱も、覚悟しておきたまえ―



竹原の両親は父母ともに、大学病院勤務の医者だった。

特に父親は、若くして教授の声も間近と噂されるほどの有名な外科医だった。

竹原の父親は、はじめは話し合いにもならないほど不遜(ふそん=思いあがっていること。または、そのさま)な態度だったが、
通された部屋がカウンセリング室とわかると、次第に医者としての本来の姿を取り戻していった。



―向こうの部屋からこちらは見えません。いいですか、息子さんの向かって右側が担任の先生、そして校医の川上先生です。
竹原君と話をしているのは川上先生です。川上先生はカウンセリングの専門医でもあります。よく聞いておいて下さい―




考察:竹原 篤と水島 司の関係


―竹原君は、水島君にお金を取られたり叩かれたりしたんだね―

―違います!お金を取られたんじゃありません。
あれはぼくが水島さんの眼鏡を壊してしまったから・・・弁償したんです―

―そう。じゃあ、どうして叩かれたの―

―それは・・・ぼくが生意気なこと・・・したから・・・―

―生意気なことって―

―・・・水島さんの・・気に入らないこと・・・でも!その後は、すごく優しいです―

―叩かれた後?―

―はい―

―どんなふうに、優しいの―

―・・・勉強見てくれたり、本の話してくれたり・・・―

―そのときは、楽しい?―

―はいっ!とても!―

―竹原君は、叩かれるのは怖くないんだね―

―そんなことは、ありません・・・。叩かれるときは、すごく怖い・・・―

―呼び出しに応じていたのは、水島君が怖かったから?―

―違います!叩かれるのは怖くて嫌だけど・・・水島さんは、ちゃんとぼくのこと許してくれるんです―

―許す?―

―痛かったなって・・・抱きしめてくれるの―

―叩かれるのは、どんなことをしたとき?―

―えっと・・・水島さんの、気に入らないことをしたとき・・・です―


叩かれることについての質問には、同じ答えが帰ってくる。

それもいたって抽象的に気に入らないこと≠ニ、竹原は表現している。

つまり竹原にとって、水島に叩かれる理由そのものは、さほど必要のないものだということが窺われる。


―それじゃあ竹原君は、水島君に脅されて呼び出されていたんじゃないんだね―

―はい―

―だけど呼び出しを受けたら、叩かれるって思わなかったの―

―・・・それは思いました。でもそれさえ我慢したら、許してもらえるの―


許してもらえること、すなわち水島に抱きしめてもらえることだった。


―そっか。竹原君は、水島君に許してもらいに行っていたんだね―


こくんと、竹原は頷いた。

その頷きが、水島に対する竹原の全てだった。




考察:竹原 篤と両親の関係


―竹原君のお父さんとお母さんは、優しい?―

―はい―

―どんなふうに優しいのかな―

―怒らないし、叩かないし・・・えと・・・あっ!この学校に受かったときは、うんと褒めてもらいました!―

―それは良かったね。お父さんもお母さんも、おめでとうって抱きしめてくれたかい―

―いえ、それは・・・お父さんもお母さんも忙しいんです。たくさんの人を診なくちゃいけないんです。
そんな両親を、ぼくは尊敬しています―


竹原は両親の職業を理解し、自分の置かれている環境も把握していた。

竹原の心の欲するところは、両親に対する尊敬というかたちで抑えられた。

それが竹原夫妻にとって、わが子の心を見落とす最大の盲点ともなった。


―立木君に、水島君とのことを話したのはどうして?―

―立木君とは同じ部屋で、急に出て行ったり泣いた顔見られたりして、すぐ気付かれました。
どうしたのって聞かれて、立木君には話せるって思ったんです―


流苛はその容姿から、単身母国へ帰って行った母親への憎悪の対象として、父親から虐待に近い暴力を受けていた。

そういうことには敏感なのだろう。


―立木君は・・・今でもお父さんは怖いけど、でも嫌いじゃないって言っていました。
同じだって思って、水島さんとのことを話したんです。そしたら・・・―


―違うよ!全然違う!お金取られてるんだろ!叩いた後に優しくするのは、
いけないことをしているってわかってるからだよ!ごまかされちゃ、ダメだ!僕が指導部の先生に言ってあげる!―


―立木君が本条先生に相談した結果、水島君は謹慎になってしまったけど、
竹原君はそれに対しては何も思ってないの?―

―立木君はとてもぼくのことを心配してくれていて・・・。
ぼくが反対の立場なら、やはり同じことをしたと思います―

―そうだね。立木君のときに教えてくれたのは、竹原君だったね。
今回のことで、君と立木君との仲も、危惧していたひとつなんだよ―

―それは大丈夫です。ただ水島さんは酷い人じゃないってことだけは、もう一度きちんと立木君に話すつもりです―


竹原は思っていたよりもずっと冷静に、自分の立場をわかっていた。

その上で、水島を庇う発言を繰り返した。

ここでも頭で理解していることと、心が欲することの違いが明白に見て取れた。


終盤近く、隣室の窓からカウンセリングの様子を食い入るように見つめている竹原夫妻に、先生はスケッチブックに描かれた一枚の絵を見せた。

それは竹原が描いた両親の似顔絵だった。

―どうです?―

―・・・わが子ながら、よく描けていると思います―

―本当に!あの子がこんなに絵が上手だったなんて。それさえも、私は・・・母親なのに、知りませんでした―

父親は少し不審そうなイントネーションだったが、母親はしみじみと似顔絵を見ながら目頭を押さえた。


先生は竹原夫妻が来る前の、その時の様子を話して聞かせた。




考察:竹原 篤 理性と心のバランス


―竹原君、絵を描いてくれないかな―

―絵・・・ですか?―

―うん、人物画を描いてほしいんだけど、描ける?―

―はい・・・あまり上手じゃないけど・・・―

―絵は、上手い下手じゃないよ。自分が描けたかどうかだよ。今度本条先生に聞いてごらん―

―本条先生、絵を描かれるんですか―

―みたいだよ・・・花の絵しか、見たことないけどね―

―なんなら本条先生も呼んで、竹原と一緒に人物画を描いてもらいましょうか―

―あはは、それいいね―

川上先生は担任の先生も交えた竹原との他愛ないやり取りで、まず室内の張り詰めた雰囲気を解きほぐした。

二人の先生を前に緊張気味だった竹原にも笑顔が出て、リラックスした笑い声の中それは始まった。


川上先生は、スケッチブックと鉛筆を竹原に渡した。

―そうだね・・・水島君を描いてくれるかな―

―水島さん・・・んと・・・似顔絵って、難しいな・・・―

―ああ、君の好きなように描けばいいよ。マンガ風でも、思いっきりデフォルメに描いてもいいよ―

―それなら!えっと・・・水島さんは、眼鏡が特徴だから・・・こんな感じ・・・―

―なるほど、似てるね!立木君はどんな感じかな?―

―立木君は、髪の毛がクルクル巻いてて・・・目が大きくて・・・―

マンガ風に、サラサラと竹原は描いた。

―何だ、竹原君、上手いなぁ!じゃあ次は、君のご両親を描いて―

―はい!お父さんは・・・あっと、失敗・・・お母さんから描こうかな・・・・・・―

手が止まった。

―・・・あれっ、上手く描けない・・・―

竹原は焦るように、何度も消しゴムを使った。

―上手く描く必要はないんだよ。さっきみたいに、君のイメージで描けばいいんだよ―

―はい・・・あっ、そうだ!ここに・・・んっ・・と・・・お父さんの輪郭は・・・―

胸に下げている名札の中から写真を取り出して、丁寧に描き始めた。

先ほどのマンガ風ではなく、どちらかというと写実的なタッチだった。



話の途中、親の顔をイメージすることが出来ず、写真を見ながらでなければ描けなかったと聞くに及んで、竹原夫妻は顔色を蒼白に変えた。


川上先生には、予想しえたことのようだった。竹原が写真を見ながら描いていることについては何も触れなかった。

―竹原君は、名札にご両親の写真を入れているんだね―

―はい―

―お父さんとお母さんのこと、大好きなんだね―

―はい!・・・名札はちょうど胸の、ちょっと下のところに当たるでしょう・・・―

竹原は描く手を休めて、ちょこんと自分の名札を指差し、笑顔で答えた。


―抱きしめてもらっているときって、ここに腕が当たるんです。
ぎゅって抱えられて、すっぽり包まれるみたいに、温かいの―


頭で理解していることと、心が欲していること。

理性と心のバランスが大きく崩れているわが子に、竹原の父親は愕然とした。

母親はもはや顔を覆って、その姿を見ることさえ忍びないと泣き崩れた。


そしてその後、長い話し合いが学校側と竹原夫妻の間で行われた。

竹原夫妻は話し合いの最後に、ここで見たわが子の姿は一生忘れることが出来ませんと、先生に語った。






「水島、君はとても温かかったそうだよ。親に抱かれる温かさを、君は竹原君に教えたんだ」

「・・・先生、俺は・・忘れてた。篤くらいのとき・・・家に帰ると鬱陶しいって思うほど・・母さんが俺を抱きしめて・・・。
だけどいつも温かで・・・幸せだった」

「だから竹原君は、家に帰るんだよ。今度は親の待つ家にね」




いつしか穏やかな空気が流れ

食堂の先生の席に飾られたヤマユリの花が

仄かな香りを放つ初夏の日暮れ時

景観はひっそりと橙色の花弁を震わせて

周囲に調和しながら静寂が戻る




先生は、テーブルに置きっ放しになっている水島の眼鏡を手に取った。

「この眼鏡は、いつ買ったの?壊れていた間は不自由だっただろ」

「予備に・・・持っていました。母から・・・高等部進級のときの・・祝いです」

「そう。・・・うん、どこも、傷ひとつ付いてないよ」

もう一度丹念に見た後そっとテーブルに置きなおして、椅子から立ち上がった先生は僕の方に歩み寄った。

水島は脱力したように、床にうつ伏せたままだった。


「聡君、立てるかい」

腕を取って、肩にまわした。

黙って、先生のされるままに従った。先生と水島の間に、僕が言葉を挟む余地は無かった。

起き上がれないでいる水島をひとり残して、先生は僕を連れて食堂を出た。







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